心象と自然のあわいに生きる表現のために
もはや、誰も無意識を「深層」や「謎」として仰ぎ見る時代を生きてはいない。
無意識は、身体のふるまいに宿り、風の肌ざわりに混ざり、
誰もがコトバ無しに知っている「感覚の地層」として、日々を静かにかたどっている。
わたしは、自然のなかに人工物をそっと配置し、
そこに漂う季節、湿度、空気、光、音とともに、
深層に触れる一瞬を記録してゆく。
この行為は、アートが設置ではなく生成であり、
構築ではなく共振として転生する兆しなのだ。
わたしはそれをアライブ・インスタレーションと呼ぶ。
それは、環境と心象のあわいに生まれる、生きた出来事の意志であり、
無意識がふと姿を現す、自然と感覚の接点である。
かつてのシュルレアリスムが目指した“夢”や“無意識”が、
もはや深層にあるものではなく、
世界そのものに滲み出ている現象であるという再定義なのだ
表現は、象徴や奇想ではなく、
触れられないが、たしかに
そこに“ある”感覚をすくい取る行為でもあるのだ。
この実践を「トランス・シュルレアリズム」と名づける。
それは、無意識と意識、
自然と人工、記憶と現在、身体と風景、知と感覚とを越境する、
変容の詩学である。
作品は、完成された視覚表現ではない。
それは観る人の内側で再生成される、開かれた感受性の地図であり装置なのだ
自然と共に生きる人間の、微細で確かな「心の気象」の記憶でもある。
それは、社会的表現性の概念として刻まれる日がまもなく来る。
夢はすでに“どこかの異次元”にあるのではない。
それはこの場にあり、足元にあり、空気のうねりのなかに生まれている。
私はそれに耳をすまし、目をひらき、そこに佇む。
トランス・シュルレアリズムは、未来の過去に、 覚醒の中心で生きるための、
解像度が高い詩のカタチである。
カタノユキ
